右手首のないダウン症のピアニスト鈴木凛太朗さんのお母様、真己子さんの手記を読みました。
以下、その手記の要約です。
鈴木凜太朗(すずき りんたろう)さんは、1991年1月11日に生まれました。
現在、兵庫県伊丹市在住です。
鈴木凜太朗さんは、ダウン症と先天性右手欠損、鎖肛の重複障害を持って生まれました。
鈴木凜太朗さんのお母様は、鈴木凜太朗さんがまだ小さい頃、人目にさらしたくなかっため、右手を手袋で隠していたそうです。
また、子供が生まれたことも友人には伝えなかったといいます。
この子は、「何のために生まれてきたのか」、「どうやって生きていくのか」ということを考えていたそうです。
あるとき、大学病院に入院しているとき、初めて個室ではなく大部屋に入った際、手袋を取ったそうです。
子供たちは、「なんで手がないの?」といった質問をしてきたそうです。
子供たちは、自分たちとの違いに疑問を持っただけであり、傷つける気などなかったということに気づいたそうです。
7歳の頃、エレクトーンを習い、片手で弾けるようになりました。
11歳の頃、欠損している右手も使って、両手でピアノが弾けるようになります。
毎日、2時間の練習をしたそうです。
中学卒業のお別れ会で、鈴木凜太朗さんは、内緒で猛特訓した森山直太朗の「さくら」を演奏したところ、演奏を聴いた生徒からどよめきが起こったそうです。
鈴木凜太朗さんは、努力すれば出来る、達成感が得られる、認められればうれしいことが解ったようだったそうです。
その後、ピアノの先生から「国際障害者ピアノフェスティバル」が開催されることを聞き、出演することを目指します。
2年間の練習を経て、「国際障害者ピアノフェスティバル」に出場します。
弾いたのは、「悲愴 第二楽章」です。
5分の曲です。
その後、年間20回を超える演奏活動を行っているそうです。
手記の中で印象的だったのは、以下の文面です。
障害のあるひとや障害そのものの知識がなかったから、息子の未来や可能性に希望を持てなかった。
彼は生涯不幸を背負い、私はその世話をして暗い人生を送るのだと思っていた。
実際には、障害のあるひとの周りには、私が考えもしなかったような環境やチャンスがいくつもあった。教え導き、支え、応援してくださる方々が、いつでもどこにでもいらっしゃった。
手記の最後に、幼いダウン症のお子さんを持つご両親からの言葉に涙を流したそうです。
「凜太朗君の演奏を聴いて、明日が信じられるようになりました……」
手記から私が思ったことは、
ダウン症だから、障害児だから、未来、希望はないのではなく、
未来、希望を閉ざしているのは親の方であること。
世の中、活躍しているダウン症児は、決して最初から才能があった訳ではなく、努力して開花したものであり、誰にでも可能性はあるということに気づかされました。
引用 真己子さんの手記「明日を信じる」 第46回NHK障害福祉賞で優秀賞を受賞。