目次
1.金澤翔子さんが生まれた時
1985年、金澤翔子さんがお生まれになりました。
母・泰子さんが42歳のときです。
金澤翔子さんは生まれた時、敗血症だったそうです。
敗血症は、血液の中に病原体が入り、全身に重篤な症状を引き起こす非常に危ない状態です。
さらに翔子さんは敗血症のみならずダウン症でした。
泰子さんのご主人は、医師から敗血症で交換輸血が必要な状況であるが、ダウン症で知的障害もあるためこのまま助けなくても良いのではと提案されたそうです。
しかし、クリスチャンだったご主人は、この提案を受け入れなかったと言います。
一方、泰子さんは生まれた子が、もし男の子であれば日本一の能楽師に、女の子であれば日本一の書道家にしようと思っていました。
しかし、生まれてきた娘がダウン症と知り、日本一の夢が断たれたと思ったそうです。
夢が断たれただけでなく、泰子さんは、一緒に命を絶つことばかり考えていたそうです。
地震でも起きたら、マンションのベランダから翔子さんを落とそうと思っていたところ、本当に地震があったそうです。
そのとき、とっさに翔子さんに駆け寄り、抱きかかえたそうです。
このあと泰子さんは翔子さんを育てていこうと決意します。
2.翔子さんの存在意義
その後の20年間、翔子さんは学校でもどこでもビリでした。
100メートル走も当然ビリです。
音楽教室では、翔子さんだけ音程のない歌を歌っています。
そんなこともあり、学校の先生にお手数がかかり申し訳ないと謝ったそうです。
そうすると先生からは「翔子さんがいるとクラスが穏やかに明るくなるのよ」と言われました。
泰子さんは、翔子だって役に立つかも知れないと思ったそうです。
運動会で翔子さんが遅れることで空気が和むかも知れないと。
翔子さんにも存在意義があると泰子さんは思います。
3.涙の般若心境
しかし、小学校4年のとき、担任の先生から普通級で学ぶことは難しいため特別支援学校に行くことを勧められたそうです。
泰子さんはやるせない気持ちになり、落ち込んだそうです。
楽しく、お友達もたくさんいるのに。
特別支援学校に転学することになったとき、泰子さんは、翔子さんに般若心経を書かせます。
毎日、朝から般若心境を書かせていたそうです。
叱られながら、泣きながら翔子さんは般若心経を書いたと言います。
その際、翔子さんは弱音を吐きませんでした。
そして遂に、10組の般若心経を書きあげました。
そのおかげで字の書き順が確かになったようです。
書き上げた般若心経には、翔子さんの涙のあとがあるそうです。
涙の般若心経です。
3.書道家の道が開ける
翔子さんが14歳のとき、泰子さんの夫が心臓発作で倒れそのまま亡くなります。
泰子さんの夫は生前、「翔子が20歳になったら個展を開こう」と言っていました。
そこで個展を一度だけ開こうと泰子さんは思います。
銀座の名門の書廊で個展を開いたと言います。
この個展は大きな反響があり、その後、全国で個展を開くことになったそうです。
書道家としての道が開けたのです。
人生には何が潜んでいるか分からないと泰子さんは言います。
「生きてさえいれば、絶望はない」と泰子さんは実感したそうです。
4.最後に
以上が泰子さん、翔子さんのお話です。
実は、私は泰子さん、翔子さんとお話ししたことがあります。
毎年、金澤翔子さんは5月のゴールデンウィークに建長寺で個展を開いていました。
金澤翔子さんは、少しだけですが私たちの息子、娘と遊んでくれました。
泰子さんとも少しお話することができましたが、うちの早希ちゃんは、翔子さんの小さい頃によく似ていると言われました。
早希ちゃんが大きくなったら、泰子さんの書道教室に通わせないかとお誘いを受けましたが、私たちが住んでいるところから遠いため断念した記憶があります。
またそのうち、金澤翔子さんに会いに個展に行きたいと思います。