以前、ブログに下記のように記載しましたが、この表現についてコメントがありました。
「早希ちゃん自身が出来ないことは、他の健常児をうまく使う術を身に着けていたように思います。」
「使う」という言葉に違和感があるとのことでした。
召使のようなイメージを持たれたようです。
「他の健常児に助けてもらう」という表現だったら問題ないのかというとそうでもなさそうです。
私たちの早希ちゃんは、以前、小学校の普通学級に通っていましたが、特別支援学級に移り、今は、特別支援学校にいます。
そして副籍制度を使い、月に1回、小学校の普通学級に通っています。
あるサイトで健常者の方ですが、小学校の頃、同じクラスの障がい児のお世話役をやらされてとても嫌だったという記事を見たことがあります。
その方は、健常児と障がい児がともに学ぶインクルーシブ教育には反対のようでした。
このような反対意見の方は、多いと思います。
世界的には、インクルーシブ教育は当たり前のことになりつつあります。
私は、インクルーシブ教育はあるべき姿であると思っている立場ですが、そうでない方にはどう説明してよいのかとても悩みます。
障がい児がいると他の健常児に負荷がかかる、勉強が遅れるといったことに対してどう説明するとよいのか。
そもそも「負荷がかかる」という考え方が間違いであると私は思います。
もっと広い立場で見た場合、障がい者は社会の負荷であるかどうかという考え方と同じであると思います。
もし、障がい者が社会の負荷であるならば、お年寄りは社会の負荷なのか、病気をした人も社会の負荷なのかといろいろと問題が広がっていきます。
世の中、簡単に言うと助け合いで成り立っていると思います。
今は弱者でなくても、いつかは弱者になる可能性がある、弱者がいたらそうでない人が助けるということが安心して暮らせる世界なのです。
ここで言う「助ける」という言葉は、単に手を差し伸べるという以外に相互扶助のような広い意味で使っています。
障がい者がいない、弱者がいない教室は不自然な世界です。
昔は、健常児に迷惑がかからないように障がい者を隔離していたのです。
それが養護学校です。
養護学校は、そのまま英語になっているようでアウシュビッツのような隔離施設という意味合いで使われているようです。
そのため、役人は特別支援学校にこっそりと名称変更しました。
話を元に戻し、そういう障がい者と健常者を隔離した世界で生きていると障がい者を負荷と感じるようになるのかもしれません。
負荷と考えるか、当たり前と考えるか。
根本的にはこの違いだろうと思います。
負荷と考えている人にいくら説明しても負荷と考えているのだから納得しないでしょう。
だから私はそういう人には説明はしません。
弱者がいたらそうでない人が助けるということが当たり前になるようにするためにもインクルーシブ教育は必要であると思います。