以前、次の記事を書きましたがダウン症児を小学校に入れることは親の我儘という意見が根強くあります。
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今回は、広い視点から「障がい者は迷惑な存在なのか?」という点について述べたいと思います。
下の図を見て頂きたいと思います。
これは、以前、次の記事に載せた図です。
この図には、背の高さが違う3人の子どもが立っています。
3人の子どもは、背の高さが違うため、一番小さい右側の子どもは野球を見ることはできません。
しかし、台の高さは3人の子どもに同じものが与えられています。
この図は、次の3つ事を分かりやすく説明したものです。
- 野球場=場所
- 背の高さ=障がい
- 台の高さ=支援
例えば、場所が公共施設だったとします。
足が悪く車椅子を使わないと移動できない人は、車椅子が通れるようなバリアフリーの施設である必要があります。
- 野球場=公共施設
- 背の高さ=足が不自由
- 台の高さ=車椅子が使えるバリアフリーの施設
図で表すと次のようになります。
足が不自由な人は、右側の人に該当します。
台の高さが車椅子が使えるバリアフリーの施設ということになります。
ここで台の高さ=車椅子が使えるバリアフリーの施設は、特別に用意しなくてはいけないものです。
となると公共施設からすると特別に用意することになるため、負担と感じるでしょう。
もしかしたら、「車椅子が使えるバリアフリーの施設を作れ!」というのは、我儘(エゴ)と考える人がいるかもしれません。
障がい者は迷惑な存在と考える人もいるかもしれません。
私は決してこのような考え方はしませんが、なぜ考え方に違いが出てくるのでしょうか。
それはあるべき姿が違うからだと私は思います。
最初の図を「公平の図」、次の図を「公正の図」と呼ぶとします。
「公平の図」は、台の高さはみんな同じであるため一見公平です。
しかし、背の高さの違いにより野球場が見えない子どもが出てしまいます。
これでは公正とは言えません。
「公正の図」は、どの子どもも野球場が見えるため公正であると言えます。
あるべき姿が「公平の図」か「公正の図」の違いなのだと思います。
これでは両者が話し合ってもかみ合うことはないでしょう。
どちらが本当のあるべき姿なのでしょうか。
憲法第25条では、次のように定められています。
第1項 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
第2項 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
日本においては、「公正の図」の方を目指しているように私は思います。
最近は、合理的配慮という考え方が浸透してきています。
これは、障がいがある人の障壁を取り除くよう努力しなさいということです。
全ては無理にしても出来る範囲で努力するべきであると思います。